初詣ではお願いをしない_初詣の起源
初詣ではお願いをしない
初詣ではお願いではなく、〇〇と○○をするを決めています。
私が21歳、TSUTAYAで店長をしていたころの話です。
当時、スピードメーターが時速180マイル(約300キロ)を超える大型バイクに乗っていました。(KAWASAKI ZX-10 Ninja USAバージョン)
そのバイクで初詣に行き、
神様に「事故に遭いませんように」とお願いをしました。
交通安全のお守りも買いました。
しかし、その帰りに、
記憶の一部をなくしてしまうほどの事故に遭ってしまいます。
生死をさまようほどではなかったのですが、10日ほど入院しました。
「初詣に行くと事故る!」
そんな勝手な思い込みで(というよりも事故の責任を初詣に転嫁して)、それ以来初詣に行かなくなりました。
10年ほど経ち、結婚を機に(仕方なく)初詣に行ったときのことです。
それまでの私は、初詣は「お願い」をするところだと思っていました。
事故のことを思い出し「お願い」だけはしないようにと考えて、
浮かんだ言葉は「昨年は無事に過ごすことができました。ありがとうございます。今年も安全運転で家族に心配を掛けません」と心のなかで呟いたのです。
お願いというよりも、感謝と宣言でした。
不思議なもので、自分自身のこの言葉がスッと腑に落ちたのです。
初詣はお願いをするところではなく、神様に感謝と宣言をするところなんだということに、気がついた瞬間でもありました。
その翌々年の初詣では「昨年は、おかげさまで業績をあげることができました。ありがとうございます。次は出版をします!」と感謝と宣言をしたことを覚えています。
結果は、ご存知の通り出版をすることができたのです。
私の周りでも、「本の出版ができますように!」と初詣で「お願い」をしている講師仲間がいます。
お賽銭(さいせん)は100円だそうです。
100円で出版させろって、無理な相談です(笑
不思議なもので、「出版をします!」と宣言をしている講師は、次から次へと出版を実現しています。
黒岩式「夢を実現する」初詣は、昨年の感謝と、今年の宣言をします。
決してお願いをするのではありません。
年末詣のオススメ
ここ数年、ある方のススメで年末詣に行くようにしています。
今年一年の感謝と来年の宣言です。
初詣と違い、ほとんど人も居ませんから、落ち着いて、ゆっくりと参拝できます。
神さまも、ゆっくり、じっくりと話を聞いてくれる感じがします。
初詣のときは、きっと忙しくてひとり一人の話をじっくり聞けないと思うんですよね(笑
初詣の作法
- 鳥居の前では軽く会釈をする
神聖な場所に無断で入るのは失礼 - 参道の真ん中を歩かない
左側を歩くときには左足から、右側を歩くときは右足から入る - 手水で手や口を清める
右手でひしゃくを持ち、水をすくう
左手を洗う
持ち替えて右手を洗う
持ち替えて左手に水を貯めて口をすすぐ
ひしゃくを縦にして水をこぼす要領でひしゃくを洗う - 拝礼の前に服装を整える
コートやマフラーをしたままでは失礼になる
(激混みの場合は、したままでもOKとのこと) - 神前では、なるべく中央に立たない。
- 一礼してお賽銭を納める
お供え物がお賽銭になったので投げない
金額は関係ないそうです - 鈴は1回だけ
- 二礼二拍手一礼
- 住所と氏名を述べてから「感謝と宣言」
二度目からは住所は述べなくても良いとのこと
もちろん、心の中でね - 帰りに鳥居をくぐったら、鳥居に向かい直して一礼
- 初詣の帰りは、真っ直ぐに帰ると良いそうです
いただいた福を落としてしまうから
そもそも初詣って
初詣の起源は、それほど古くないんですよね
神事なので、それこそ1000年単位の昔からある行事だと思っていたら
「初詣」という言葉が使われるようになったのは明治18年(1885年)のことだそうです。
明治5年に国鉄東海道線が開通して川崎大師などに行きやすくなり、年々客数が伸びて一大行事になったようです。
鉄道会社からすれば、商機でもあるので、沿線の神社の宣伝などもきっとしたんでしょうね。
いずれにせよ、
一年を振り返り、感謝と宣言をする機会と捉えると、素晴らしい行事ですね。